ナポレオン――最後の専制君主，最初の近代政治家 (岩波新書)

著者は1955年生まれの京都大学大学院文学研究科教授。専攻はフランス近現代史とのことです。ナポレオンといえばその名を知らない日本人はいないでしょう。しかし強大な軍事力を使って西はスペインから東はロシアまでヨーロッパ大陸の広範囲にわたって侵略を繰り返した人物として、ヒトラーに比肩する侵略者とみなすこともできる一方、希代の政治家として“英雄”視もされます。毀誉褒貶定まらないこの歴史上の人物の実像を、私はほとんどわかっていませんでした。そう考えていたところに、新書というコンパクトな形で評伝が出たと知り、これを手にしました。高校時代の歴史の教科書で習ったはずのこと、あるいは歴史の教科書では十全に理解できていなかった多くを、改めて学んだ気がします。◆イタリア語圏の島の出身者ナポレオンがフランスで頭角を現すことができたのは、平等を重んじるフランス革命の精神のおかげであったと思い込んでいましたが、彼の父はイタリア貴族の家系であったこと、また侵略してきたフランスに帰順したためにフランス貴族の身分を追認されたため、子息であるナポレオンは仏国王から下賜された学資金で本土留学を果たすことができたのです。私の思い込みが一つ正されました。◆ナポレオンがそもそも軍人として頭角を現すようになったきっかけは、フランス革命後に富裕化したブルジョワの既得権益を守ろうとする動きに乗ずることができたからです。ブルジョワ層はかつて国有地だった土地を取得していましたが、王党派と山岳派から強い批判を浴びていました。穏健共和主義のバラス一派は王党派のパリ蜂起を鎮圧するにあたってナポレオンを副官に指名します。ナポレオンの登場の背景に、経済的利益の保護という側面があったことがわかりました。◆ナポレオンがエジプト遠征時に「兵士諸君、このピラミッドの上から、4000年の歴史が君たちを見下ろしている」と呼びかけた故事は私も幾度となく耳にしてきましたが、なぜナポレオンがエジプトに軍を進めたのかがわかっていませんでした。この書によれば、フランスが覇権を争っていたイギリスを直接攻めるだけの軍事力を持たなかったため、インド交易を妨害することでイギリス経済を弱体化することを目論み、交易路の途上にあるエジプトを抑えにかかったというわけです。◆ナポレオンのブリュメールのクーデタ計画の背後には、王党派の蜂起が続いていたこと、また急進共和派の議席拡大もあって、穏健共和派が議会権限の弱体化を図る思惑がありました。ナポレオンは軍隊を動かせる穏健共和派の将軍だったのです。しかしナポレオンはその軍事力を背景に、クーデタ後、一気に政治の実権を握ることになります。◆興味深いのは、ブリュメールのクーデタが国民によって思いのほかすんなりと受け入れられたのは、革命後に繰り返されるクーデタ騒ぎに国民が無感覚になっていたことや、反仏同盟軍に対抗できる強大な軍事政権が希求されていたこと、インフレや失業に苦しむあまり政権刷新を期待したことなどがあるといいます。このくだりは18世紀末の時世に限った話ではないと、薄ら寒さを感じながら読みました。◆ローマ教皇とフランスの間で結ばれたコンコルダード（政教協約）は、フランス人の大多数の宗教がカトリックであることを承認する一方、革命期に没収された教会財産の返還は行われないことが合意されました。私有財産権の不可侵という革命の眼目が教皇によって承認されたことを意味します。そして宗教心が強く反革命運動が盛んだったフランス西部でナポレオン支持の声が高まったといいます。宗教と革命政府の間に成立したこの和解は、ムスリム移民・難民問題を抱える今日の目から見るとまた大きな意味があると著者は指摘します。◆ナポレオンがヨーロッパを広範囲に襲ったのは財政上の理由がありました。戦争に勝って占領地から巨額の賠償金と税金を取り立てることを企図していたわけです。しかしスペイン占領は戦費がかさむばかりでしたし、ロシアは兵站問題を抱えるフランスの弱点をついて焦土化作戦で撤退を続けてナポレオンを疲弊させたというのが実態でした。◆「ナポレオン法典」は「万人の法の前の平等」「私有財産権の不可侵」「経済活動の自由」といった近代市民社会の礎を築きましたが、一方で女性の差別や奴隷制度の継続など近世的性格をまだ残していました。その意味でナポレオンはこの書の角書がいうところの「最後の専制君主」であると同時に「最初の近代政治家」でもあったといえるのです。近世から近代への過渡期の政治家としてナポレオンを見つめることが重要だということがわかりました。-----------------------------＊124頁に「専政の打倒」、170頁に「専政傾向」とありますが、どちらも「専制」とするべきでしょう。なにしろこの書の角書（つのがき）が「最後の専制君主」ですから。-----------------------------ナポレオン時代に先行するフランス革命の詳細について手軽に読める新書を以下に紹介しておきます。これを読んでおいたから、歴史の時系列に沿ってナポレオンをより理解できたと思います。◆遅塚忠躬『フランス革命―歴史における劇薬』(岩波ジュニア新書)：「ジュニア新書」とはいえ、大人の読者が読んでも十分知的興奮を味わえる書です。経済の≪自由≫を求めるブルジョワジーと、経済的≪平等≫を求める大衆との利害調整が革命期にはあったこと、民主共和制はナポレオン帝政や王政復古などの曲折はあったものの第三共和政で定着し、経済的自由競争はナポレオン帝政でも継承されたことなどが詳述されます。フランス革命の実りは今日明日の短期スパンで実効性を測ってはならないものだったことがよくわかります。◆安達正勝『物語 フランス革命―バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』(中公新書)：フランス革命が高邁な理想を掲げながら、恐怖政治やナポレオンの皇帝就任を許したのは、著者曰く「新しい原則はすぐには社会に定着しないというのが、この世の常である。過去の習慣の力はあまりにも大きく、人間はすぐには新しい原則に適応できないのである」（6頁）。それでもフランス革命は、身分によって人生が生まれたときからほぼ決まってしまっている社会を変革しました。つまり私もあなたも、フランス革命の果実を享受できる社会に暮らしているというわけ。流血の革命史をたどり終えたとき、そのことを今一度噛みしめました。.